私の恩師シリーズ 3 <犬飼先生その六>
犬飼先生の話は常に余計な肉がなく、筋が通っていた。
それをゆっくりゆっくり話すので、なんというか、論理の骨組みが目の前に見えるような気がするほどだった。
学生が書いた論文の手入れもうまかった。
論理のちぐはぐなところをあっというまに見つけ出し、こことここを入れ換えて……とか、ここはいらない、とか先生が手を入れるとすっきりとよくわかる文章になる。
私はそれまでは“感性で”文章を書いていたので、パラグラフを意識したことはなかった(そんなことを教えてくれる先生はいなかった)ので、なるほど、と思った。
というか、国語の先生というのは本当に何も教えてくれなかったんだなぁ、というのをしみじみ思った。
私が国語を教わったと感じたのは、代々木学院の(塾です)国語の先生と犬飼教授だけだと思う。
(ちなみに代々木学院はオーナーの希望で予備校生を狂言にも連れてってくれた……。生徒のほとんどは感動も何もしていなかったと思うが、生まれてはじめて見た狂言は私にはとても面白かった。ほかにも、いわなくてもなにかを感じてくれた人はいたんじゃないかな、と思う)
惜しむらくはそうやって、筋が通っているにも関わらず、その結果には納得がいかないことが多いことだった。
たとえば先生は「広辞苑」に載っていればその言葉を使ってもよろしい、というルールを作っていた。
ということは、載っていなければ使えない、ということである。
“だってどこかで線は引かないと……”
という先生の主張自体はそうだよね、と思うものの、広辞苑に載っていない言葉は使ってはいけないといわれると、ときどきたいそう困ったことになるのだ……。
たとえば、アリエッティの(床下の小人たち、よ)未訳の短篇を訳して持っていったら
“赤木君、スパンコール、とはなんだね?”
と訊かれた。
解説したが、それは広辞苑に載っていないから使わないでくれ、とおっしゃる。
確かに載ってはいないだろうし、どのジャンルであれ、いちいち専門用語を使われたら読めたもんではない、とは思うが、スパンコールくらい使わせてよっ!
女子なら誰でも知ってるって!
第一、スパンコール、をどう表現すればいいものか……😅
薄い箔で作られた丸い小さなキラキラする飾り?
あのー、スパンコールくらいみんな知ってますぅ、といったのだが、僕は知らないねぇ、と言われてしまった。
実際、翻訳というのはそういう部分をどう訳すか、どこまで訳すか、が醍醐味の一つでもあるのだが、広辞苑に載ってない言葉はだめ、といわれると結構苦しいことになってしまう。
そのときに広辞苑をかなり読まなくてはならなかったので、それまで読まないで持っていた広辞苑に対する無邪気な信頼は崩れた。
広辞苑って
割りといい加減……。
定義が定義になってない……。
新しい単語は載ってない……。
ということは使ってみなければわからないが、先生がいなかったらこんなにも使うことはなかったろう。
最終的には言葉に困ったらオックスフォードに当たれ、という誰かのセリフに納得したのだが(といっても英英なんで、そう簡単には読めやしませんが)そんなもの、自宅に持ってられませんて……というわけでそれも実用的ではないのだった。
大学図書館に入り浸らんと使えない……。
というわけで、どこかで線を引かねば……という主張は正しいのに、その結果はうーん、というものになってしまうのだった。