LGBTQの本棚から 第2回 白い部屋のふたり
白い部屋のふたり 担当 赤木かん子
日本の活字の児童文学で、はて、LGBTQが登場するものがあったかというと、はて……。
思い当たるものがない……。
日本の児童文学は本当にいろいろなことをやり忘れたんだな、と最近よく思うが
これもその一つですね。
マンガは基本雑誌発表で、本にならないで消えていってしまったものが数限りなくあるので、これが最初の一つだ、とは言い切れませんが、とりあえずいまでも割合比較的手に入るので、あった!と断定できるものとしては、山岸凉子の短編「白い部屋のふたり」があります(山岸凉子全集、のなかのどれかに入っています)。
1970年か71年あたりだったと思う……。
フランスの(当時の少女漫画では、日本を舞台に描けないテーマ……たとえば女の子が車を運転する、というようなことから始まって……は外国を舞台に描かれました。外国は少女漫画にとって、SFと同じ、描きたいテーマを設定できる魔法の装置だったんだよね。このやりかたは1990年代まで続けられた)上流階級向けの高級女子寄宿学校が舞台で、確か語り手は親が離婚したか亡くなったかして寄宿にきた女の子?だったと思う……。主人公は母親が有名な女優で、でも娘を寄宿学校に放り込んでちっとも会いにも来ない、という設定で、だからテーマはネグレクトとレズビアンだった。
ただ、あとでどこかで山岸さんが、あれは本当は男同士を描きたかったのに、当時はとんでもない!!
だったから女同士になった……みたいなことをいってらして、へぇ~、と思った記憶があるので、レズビアンを描きたかったわけではないらしい……。
山岸凉子はバレエ漫画「アラベスク」のなかにも、レズビアンの女性を登場させてたと思うが(ごめん。いま手元にないので、というよりあるはずなんだけど引っ越し荷物からまだ引っ張り出せていないので、確認できない。こういうとき、公共図書館がマンガ揃えてないのが困るんだよねぇ。児童文化の半分が資料なしになってしまうんだから)これまたえらく小難しい登場のしかただったので(確かこっちはアルコール依存症だった?)当時熱狂して読んでいた10代でも、ちゃんと理解できてた人は少なかったかもしれない。
いまでは当たり前どころか、ボーイズラブは一大ジャンルだったりするし、山岸凉子も「日出ずる処の天子」で、男同士の同性愛を描くことができました。
ただ、ボーイズラブも、舞台は外国!と同じ、現実では描けない問題を描くための装置……という面があるので(たとえば異性カップルだと、男の方が転勤になるとついていくのを嫌がる女はわがままに見えてしまうが、男同士だと、オレのキャリアどーすんだよ、と対等の立場でケンカできる……とか)主人公たちがゲイだからといって、ゲイである、という問題をテーマにしてるわけじゃないのですが……。
山岸凉子のマンガのヒロインは、ほぼ18歳以上なので、子どもを対象に描いていたわけではないのだと思うけど、小学生でも読もうと思えばじゅうぶん手の届く範囲にはあったと思う。
活字の児童文学はマンガのように主人公に荒唐無稽なことはさせられなかったし(「鉄人28号」の正太郎くんなんて、どうみてもまだ子どもなのに車を運転したりピストル撃ったりしてたぞ)まだまだ女性差別的なとこがあったし、社会問題にも切り込めなかった……。
施設の子どもが主人公のものも、貧困も、いじめも、人種差別も、ほぼ描いてないに等しい、と思う……。
もちろんLGBTQも……。
いま読めば「白い部屋のふたり」も「アラベスク」もそう難解な話ではないでしょう。
こっちが概念に慣れたからね。
「アラベスク」は主人公の泣き虫ノンナ、はちっとも面白くないのだが、まわりの人々はたいそう魅力的で複雑です。
考えたら、もう50年近く前のマンガなんだねぇ!
全然手加減して描いてないので、大人になってから読むと当時読んだときは全然わかってなかったんだなぁ、と思う……ので、この二つ、読んでない人は読んでみてもいいと思う。