☆楽しい学校図書館のすぐに役立つ小話☆彡【少女小説論・その一】
今年、一時期やめていた、少女小説、の棚を復活することにしました。
今の作品が増えてきたためです。
そういうわけで、まずは少女小説の定義から入りたいと思いますが、少女小説とは、女の子が主人公で、話の中で成長し、何らかの結論に達するものをいいます(おおむねそれは結婚です。もっとも本当はそれはゴールではなくスタートなのですが、10代の女の子にとっては昔は結婚したあとは未知数でした。「若草物語」のラストも、ものすごく唐突で違和感ありまくりですが、長女のメグの結婚ですよね)
なので主人公は、おおむね三年生以上、下手すると17歳前後のほぼ大人です。
つまりこのジャンルはもともと子どものものではなく、大人のための、正確には10代後半の半分大人になりかかった女の子のための小説でした。
当時は18歳で女学校を出れば結婚したわけですから。
その人たちに対して、当時の大人が、こうあって欲しい、という希望というか、モデルとして19世紀に生まれたのが少女小説なのです。
(低学年のための本を高学年の本と分けなくてはならないのは作りが違うからですが、その違いは何かというと、低学年は主人公が成長してはいけない、高学年の本は成長しなければならない、というところです。
主人公に成長されると低学年の読者の子どもたちはついていけなくなります。
自分たちはそう早くは成長できないですから。
なので、のび太くんはいつまでたっても同じ失敗を繰り返さなくてはならないのです。
低学年の文学というのは、読者は大きくなり卒業する、そうしてまた新しいお客さんが入ってくる、ものなのです)
代表としては
「若草物語」
「赤毛のアン」
「少女パレアナ」
「リンバロストの乙女」
あたりですね。
当時は雨後の竹の子のように膨大な作品が書かれましたが、低俗なものになるとお涙頂戴のメロドラマになってしまい、そういうものはやはり消えていきました。
1960年代には日本のどの出版社も一つくらいは少女小説のシリーズを持っていたものです。
なのでここらへんを古典として揃えてもいいのですが、今の子どもたちには正直読むのはきついでしょう。
その“あらまほしき”モデルは、今はそうなりたい、とは思えない姿なうえに、到底実現不可能だからです。
“清く、正しく、美しく!”
きゃ〜っ!
ですよ。
😅
でも大人は、そこらへんは自分のことは棚に上げて読めるので、ここらあたり、トップクラスの作品は今読んでも面白いです。
というのは、この手の話は昔、子どものときに読んだときには気がつかなかったことに今読むと気がついて驚かされることが多いからです。
ええっ?
この話ってこんなんだったの?
と……。
アン、は典型的な愛情不足のぶっ壊れた子どもだし、リンバロストは、児童虐待、ネグレクトです。
モンゴメリーの「銀の森のパット」などは、生身の男より育った家がいい、という今の言葉でいうならオタク、の女の子がそこから抜けて現実に恋愛できるまで、を描いていて、この時代にどうしてそんなことがわかったんだろう?
と思うほどです。
アメリカ人の(モンゴメリーだけカナダですが)素直で、ストレートで単純で、まっすぐ、いい人でありたい、というシンプルな気質が一番端的に現れているのが少女小説なのだと思います。
日本でもそれは、秋山書房と集英社の少女コバルトあたりが受け継ぎましたが、こうなりたい、こうなって欲しい、のモデルが時代が変わるにつれ、変わっていきます。
そうしてそうなると、それはファッションが変わると着られなくなるように、読まれなくなるのです。
そういうわけで、90年代の氷室冴子を最後にコンピューター世代に突入したあとは、それ以前の少女小説はほぼ使えなくなってしまい、自動的に“少女小説”というジャンルも消滅してしまったのです。
(一部、少女漫画のなかでこのジャンルは、生き延びましたが、学校図書館にそれを入れるのは難しく、従って漫画は思考外だとすると、本当に作品はなくなってしまったのです)
2003年から始まった“若女将は修行中”シリーズはギリギリ少女小説といえなくはない作品でしたが、それも10巻あたりで小学生は読まなくなり、同時に青い鳥文庫にたくさんあったロマンスものも消滅してしまったので本当に買えるものがなくなってしまい、ジャンルは消滅せざるをえなくなったのです。
2013年前後に悪役令嬢もので、なろう系として復活するまで……。
2023/09/21 更新